「刺し子って何?」という質問。刺し子と長年時間を過ごしてきた私も、明確な答えは持っていません。あるいは、明確な答えを以て定義としてしまうと、私が認識できていない刺し子を歴史に埋没させてしまうことになるからと不安を抱いているのかもしれません。
布が手に入りにくい時代。布を簡単に取り替えることができない中で、糸を通し布を補強する行為、これが刺し子の原点の一つです。それは日本人の当たり前の日常に存在した針仕事であり、多くの場合、それを担っていたのは女性でした。女性の日常の営みとしての針仕事だったからこそ、正解や権威等は存在しないし、これからも必要がないものだろうと思っています。
現代において、それはなかなか理解されないことも事実です。
だからこそ、私は「刺し子はお味噌汁みたいなもの」とお伝えするようにしています。お出汁の選択、お味噌の種類、具材の好み—それぞれの地域や家庭によって異なります。その違いは全て正しいものであり、どこか一つの家庭のお味噌汁だけを正解とし他を排除してしまうと、それはもうなんだかお味噌汁ではない違うものになってしまっているような気がします
刺し子も同じです。
好みの柄、使用する道具や材料、運針のリズム…続けるほどに、それぞれの特徴が現れてきます。だからこそ、ご自身の刺し子を大切にして欲しいのです。運針会は、そんなご自身のお味噌汁を作れるようになるように、(私達の地域の)出汁の取り方とか包丁の持ち方とかという、私達のお味噌汁の最初の一歩をお教えする場所であり続けられたらと思っています。
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刺し子に「正解」や「これが絶対だ」という定義は存在しないと、私は確信しています。刺し子は、地域や家庭、そして個々人の手によって育まれ、形作られてきたものであり、その多様性こそが刺し子の本質だと思います。一つの形を「正しい」として他を排除してしまうことは、刺し子の広がりや奥深さを狭めてしまう危険性があるのです。むしろ、異なる背景や感性を持った人々が、それぞれに自分の刺し子を育んでいくことで、刺し子はより豊かに、そして深くなっていくのだと思います。
だからこそ、運針会では「こうしなければならない」という教え方はしません。私たちが大切にしているのは、参加者一人ひとりが自分の感覚を大切にし、独自の刺し子を見つけていけるような場を提供することです。針を持つ手に宿るリズム、布に針を通すその感覚、そして糸が布に絡み合っていく瞬間の美しさ—これらを感じ取ってもらい、自分だけの刺し子を育んでいって欲しいのです。
刺し子の針仕事は、お味噌汁とよく似ています。お出汁の選び方、味噌の種類、そして具材の組み合わせ—それぞれの家庭や地域によって異なるように、刺し子もまた、その人の手によって形作られていきます。刺し子の柄や、使う糸や布、運針のリズムまでもが、その人の個性や感覚に応じて変わっていくのです。それゆえ、他の誰かのやり方を模倣する必要はなく、自分の手が紡ぎ出す刺し子を信じ、楽しむことが大切なのです。
運針会でお伝えしているのは、あくまで私たちの「基本」の部分です。例えば、お味噌汁で言うところの出汁の取り方や、包丁の持ち方に相当する部分です。しかし、それをどう発展させ、どう味わうかは、皆さん一人ひとりの自由です。運針会が提供するのは、その第一歩を踏み出すための道しるべに過ぎません。
刺し子の世界は、実に奥深く、そして無限の可能性を秘めています。一針一針に込められる思いは、それぞれに異なり、その全てが尊重されるべきものです。布と糸、針と指先の間に生まれるリズムは、まさにその人自身の歴史や経験、そして祈りを反映しているのです。だからこそ、私は皆さんにご自身の刺し子に自信と誇りを持って欲しいと思っています。
刺し子は、ただの技術や手仕事ではなく、そこには祈りが込められ、思いが織り込まれているのです。私たちが運針会を通じてお伝えしたいのは、単なる技術的なノウハウではなく、その裏にある精神や思い、そして何よりもその人自身の手によって生まれる「唯一無二」の刺し子を楽しんで欲しいという願いです。刺し子は、誰かに伝えるため、そして誰かを想うためにあるのです。
