刺し子と襤褸について

· 刺し子な冊子2024

刺し子が英語圏で人気になった理由の一つに、「襤褸(ぼろ・らんる)」の存在があります。BOROとして本来の姿とは全く違うものになりつつある襤褸ですが、刺し子と襤褸は切っても切れない関係性にあります。英語圏では刺し子と襤褸を異なる「技法」として紹介する流れがあるものの、本来、この二つは同じ線上に存在するものだと思っています。

「刺し子は日本で行われてきた針仕事であり、その刺し子を続けていった結果の究極の形が襤褸である」

というような紹介をするようにしています。

やや極端な定義かもしれませんが、刺し子と襤褸を別々に紹介するよりも、この方が本質を表しているかと思います。もし刺し子が祈りの所作だとすれば、襤褸はその祈りの結晶と言えるでしょう。刺し子が誰かを思いながら行う針仕事であれば、襤褸はその思いを形にした現実の姿です。

終わりが近いからこそ、襤褸には穢れを感じてしまうのかもしれません。まぁそもそも、使い古したものが襤褸となっていくので、綺麗なものだという認識は日本の当たり前の中にはあまり存在しませんが。やっぱり雑巾は汚いものであると思うのですよ。

文化が異なれば、変化は避けられません。しかし、言葉や物事の本質だけは、変わらずに大切にされ続けてほしいと、強く願っています。

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襤褸が持つ「穢れ」の感覚は、確かに日本文化の中で深く根付いているものです。長い年月を経て繰り返し使われ、補修され、最終的にその役目を終えた布に、私たちは自然と「終わり」や「使い古されたもの」を感じます。布がその生涯を終える姿を目にする時、そこには一種の疲れや劣化の印象が漂い、綺麗なものとして扱うことは少ないのかもしれません。実際、日本では雑巾のように「汚れたもの」としての認識が根強くあり、襤褸もまたその範疇に含まれていることが多いように思います。

しかし、近年では、襤褸が「汚れたもの」から「美しいもの」へと再評価される動きが見られます。特に海外、特に英語圏では、襤褸が持つ美学が注目され、その不完全さや歴史を物語る姿に価値を見出すようになっています。BOROという言葉は、リサイクルや持続可能性の象徴として取り上げられることが多く、ただの古い布ではなく、時間を超えて受け継がれる「美」の一つとして捉えられつつあります。文化が異なる中で、こうした解釈の違いが生まれるのは自然なことですし、むしろ異文化の中で刺し子や襤褸が別の意味を持つことに対して、私は前向きに捉えています。

文化が違えば、その解釈や価値観が変わっていくのは避けられないことですが、それでも、私は「本質」というものだけは変わらず大切にしてほしいと強く願っています。刺し子と襤褸が持つ意味や、それらが生まれてきた背景には、時代や国境を越えて守るべき「祈り」の精神が宿っているのです。

刺し子は、日常の中で、誰かを思いながら一針一針縫い進めていく行為です。そして、その積み重ねが、年月を経て襤褸となったとき、そこには形として現れる「祈り」が存在します。襤褸は、ただの古びた布ではなく、そこに込められた思いの結晶であり、祈りが形となったものなのです。

英語圏で刺し子と襤褸が異なる「技法」として紹介されることがあるのは承知していますが、私はこの二つを切り離して考えることはできないと思っています。刺し子が祈りの所作であるならば、襤褸はその祈りの結晶であり、刺し子が生み出す最終形態です。刺し子の一針一針には、布を繕いながら人々の生活を支えてきた思いが込められ、その結果として襤褸が生まれるのです。

だからこそ、刺し子と襤褸を単なる技法として捉えるのではなく、そこに込められた祈りや感謝の気持ちを理解し、大切にしていくことが重要です。文化や時代が変わっても、物事の本質を忘れずに伝えていくことが、私たちに課せられた使命だと感じています。刺し子と襤褸、そのどちらもが持つ本質的な価値を、これからも多くの人に伝え、共有していきたいと強く願っています。


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